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戦国時代・上杉家の執政・直江兼続の偉業を紹介する専門サイトです。主に米沢での偉業を中心にご紹介します。

直江兼続が小田原征伐従軍の帰途に、富士山山麓の曽我兄弟の社から譲り受けた兄弟の木像を祀る神社です。

神達明神(兼続が譲り受けた木像を祀る)

神達明神
神達明神
 直江兼続が上杉景勝に従って上洛したおり、富士山麓にある曽我兄弟を祀った社から木像を譲り受けました。そして越後へ持ち帰り、実父・樋口惣右衛門兼豊が守る直峯城に社を建てて安置たと言われています。
 後に上杉家の米沢移封に伴って社も米沢に移り、兼続の実家である樋口家に隣接して祀られました。
 その後、明治12年に町内の鎮守の神となりました。 大正6年に米沢大火があり、現在の社が再建されました。

曽我兄弟
 曽我十朗祐成(そがじゅうろうすけなり)と曽我五郎時致(そがごろうときむね)

 昔、工藤祐経とその叔父・伊東祐親という武士がいました。
工藤祐経は領地争いで伊東祐親に恨みを抱いていました。

 安元2年(1176年)、工藤祐経は狩りに出た伊東祐親に二人の刺客を差し向け、暗殺を企てます。しかし、刺客の放った矢は伊東祐親の嫡男・河津祐泰にあたり、河津祐泰はその傷が元で死亡してしまいます。

 河津祐泰には一萬丸と箱王丸という二人の息子(後の曽我兄弟)がいました。亡くなった河津祐泰の妻は曽我祐信と再婚し、一萬丸と箱王丸は曽我の里で成長します。

 その後、源頼朝がたって平家と戦い、源方が勝利します。工藤祐経は源氏側についていましたが、平家側についた伊東祐親とその一族は没落しました。
曽我兄弟は厳しい生活の中で成長しました。

 その頃、兄弟の父の仇である工藤祐経は源頼朝の寵臣となっていました。

 成長した兄の一萬丸は曽我家の家督を継ぎ、曽我十朗祐成と名乗りました。
弟の箱王丸は、亡き父の菩提を弔うために箱根権現に稚児として預けられました。しかし出家を嫌った箱王丸は箱根を逃げ出し、縁のある北条時政を頼って元服して曽我五郎時致と名乗りました。北条時政は、前妻が曽我兄弟の祖父・伊東祐親の娘だったこともあり、兄弟の最大の支援者となります。
曽我兄弟は、苦難の生活の中、父の仇討ちを一時も忘れませんでした。

 建久4年(1193年)、源頼朝は富士山の裾野で盛大な巻狩を行いました。
巻狩とは、勢子と呼ばれる人達が追い立てた獲物を武士達が馬上から弓で射る狩猟のことで、当時は武術訓練を目的とした催しでした。

 この巻狩には兄弟の父の仇である工藤祐経も参加していました。

 巻狩の最後の夜、曽我兄弟は降りしきる雨に紛れて工藤祐経の寝所に押し入ります。
工藤祐経は酒に酔って寝ていました。兄弟は、寝ている敵を討つは卑怯として工藤祐経を起こし、父の仇を見事に討ちます。

 仇討ち後、兄弟は騒ぎを聞きつけた武士達に囲まれ戦いとなり、曽我十郎祐成はそこで討ち死にしました。
曽我五郎時致は源頼朝の館に押し入った所を取り押さえられます。

 翌日、曽我五郎時致は源頼朝の前で仇討ちに至った心境をのべ、頼朝はその孝行心にうたれ五郎時致を助けることも考えました。しかし、工藤祐経の息子に請われて処刑を申し渡します。
曽我五郎時致は逆らう事無く処刑され、命を落としました。

 この事件は「曽我兄弟の仇討ち」として語り継がれ、「赤穂浪士の討ち入り」「伊賀越えの仇討ち」に並ぶ、日本三大仇討ちの一つとされています。